2011年7月31日日曜日

2011年7月30日

http://satoshi.blogs.com/life/2011/07/shinto.html

こういうネタに対しては敢えて反対の立場で書くのを信条としているのでそういう立場で書く。

・「今、国を動かしているのが官僚」なら、政治家はほっといて官僚がもっと優れた仕事をできるようにするように何かを変えたほうが効率がよいのではないか。官僚の活動に民意が反映されざるをえない仕組みを作ることはできないのか? 少なくとも東大出てるような頭のよさそうな人がたくさんいそうなわけだし。


・「民意を反映した政策」とういのが優れた政策であるとは思えないのだがどうか。たとえばインターネット上での集合知は、母数が大きくなっていくにつれて衆愚の様相を呈してきた例がこれまでにいくつかあるし、過程に多くの人が関わったプロダクトは無難ではあるが優れたものにならない、という話はモノ作りの現場でよくあることのように思える。

同じように、「投票」による政策の決定というのもあまりいい結果を導き出さないのではないかと思う。各問題や政策に対して一般の人が十分な知識を持っているとは考えられないし、容易くメディアの情報に踊らされて妙な判断を下す人も未だ多い。懸案事項を十分に理解して優れた策を選び出せる可能性がどれほどあるかが疑問。

また、こと政治に関しては、現状で平均的な人はあまり強い関心を持ってない。そうするとその「新党」周辺に集まってくるのはいわゆるプロ市民みたいな人であったり、政治に一言言いたい種類の人が多くなり、母集団としてかなり偏った集団になりそう。そこで投票などしようものなら、相当なバイアスがかかって、世間一般の感覚からはズレた案、政策が主流になる可能性がある。

といった事を打開する上で、たとえば政策の背景にあるものを公平に解説するメディア的なものを持ち、十分な説明や解釈がなされ、議論がなされればいいかもしれないけど、それをひととおりきちんと咀嚼して判断できる、知性的にも時間的にも余裕のある人というのは世間でも少ない。特に忙しく働く若い人がそんなことに参加できる余裕があるとも思えないし、そうすると結局民意ではなくて一部の富裕インテリ層の時間のある老人による判断になるかもしれない。いずれにしても何かしらのバイアスが強くかかりやすい。

というか、ここまで書いて思ったのだけど、Webで政策に対して投票するのと、政治家に対して投票するのには意義としてもやってる事としても大きな違いもないし、それをする時間的コスト等々に対するメリットがどれほどあるのか、というのも大きな疑問。

また、メルマガの収益による当選順位というのもあるけど、その数字はおそらく人気取りの上手い下手のようなもので簡単に変動する。ちょっとテレビに出て知名度があるとかそれくらいのことで変動するような数字をベースにするべきでない。ので、きちんと出している政策の価値などで判断するべきだけど、それを判断するのを一般民衆でできるとも思えないし、いずれにしてもあまりいい形に収束するとは思えない。

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っていうか、根本的に党の仕組みがどうとかそういう問題じゃないと思うのですね。

こんな仕組みでないと民意を汲みとっていい政策が出せない、いい政策を実行に移せないような政治家が政治をやっているかもしれなくて、実際うまく動いてない、ということが最大の問題で。

政治家がちゃんと民意というものを考えて、ビジョンを示して、実行していればいいだけだし、そういう政治家の存在を明らかにして、そういう人に自分たちが投票して支えればいいだけの話で。

まず知りたいのはそれができないのが何故か、っていう話で、その原因を根治しない限り、政党の仕組み程度を変えたくらいではほとんど意味はなさそう。

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とにかく今の政治の現場には、才ある人が集まる理由がまったくない。どう考えたって政治家というのはこの国では確実に損な役回りだし、頑張っても褒められもせず、ちょっと失言の一つでもすれば叩かれるようなところにわざわざ出て行くとか正気の沙汰とも思えないし。カンのいい本当に優れた人だったら政治よりもビジネスの世界を志向して、そこで利益や地位や名誉を得ることを目指すだろうし。

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ちなみにこういう仕組みの政党、自分も前に考えていたことがあるのだけど、
自分の考えていたものの場合は完全に「政治に目を向けさせる」ことしか志向してなくて、政治家はネットの操り人形として存在していて(どこぞのニートでも誰でもいい)、政策はみんなであーだこーだと考えて、2ちゃんねるあたりでこの政治家をどう操るかの安価スレが立つような、そういうものとして考えていた。
政治を遊び場にして荒らして、かませ犬、スパイス的な立場で政治の世界に刺激を与え、エンタメ化して人々の目を向けさせる。そうしているうちに、次第に政治の理解が深まって、本当にちゃんとした政策を出すように変化していくのを狙う、という。

2011年6月9日木曜日

2011年6月9日

いつの時代にもコンテンツはコミュニケーションの媒体という役割が大きくあって、じゃあ今こうしてコミュニケーションのためのツールや環境が変化してきている環境下ではコンテンツというものの意味や立ち位置というのはどう変化するだろう、っていうことがなんとなくひっかかったのでなんとなくメモ。

2011年5月14日土曜日

2011年5月14日

とある電子書籍系サービスの新しいブックリーダ的なものが公開されていて、その内容は「綺麗に縦組みできるようになってきてるよ!」というものだったわけですが。
正直、PCの画面上で見る縦書きの文章というのはなんというかすごく違和感があって、個人的には非常に読みづらかったし、内容が全く頭に入ってこなかった。

現状、PC上で読む文章というのはほとんど横組みだし、UIも左から右という視線の流れを前提に組み立てられている環境の中で生きているわけで。その環境で果たして縦書き、というのはあるべきものなのか、いいものなのか、優れたものなのか。

なんで縦書き?と尋ねると、組版などに関わる人はきっと「そっちのが読みやすい」という答えを出してくると思う。まあ、古くから日本の文字は縦書きが前提のものだったし、実際、特に本文組に適していると言われるような日本語フォントは、縦書きにしたほうが流れも良くきれいで読みやすい、というのは認める。

ただ、それは文章にひらがな、カタカナ、漢字と、あとはせいぜい数字が入るくらいだった時代の文章ではそうだったかもしれないけど、今のようにわりと日常的に書く文章の中にアルファベットが多く含まれている時代を前提にすると、どうだろう。アルファベットが含まれた途端に縦書きはものすごく読みにくくなる気もするし。

実はもうとっくに縦書きなんていらないんじゃないか。もしかして、もしかする。

2011年5月12日木曜日

2011年5月12日

「本の未来」みたいな話を読んでいて思ったのだけど、電子書籍だなんだとかいう以前に、そもそも本ってなんなんだろうね。
物語や情報を伝達する手段として、今自分たちのイメージする印刷物としての本の前には写本だとか木簡みたいなものがあって、そこからさらにの前には口伝があって、そこからさらに遡ると言葉の発明がある。ってことは、多分まあ、本という形はこの時代のテンポラリなもので、別に本という形式でなくては物語を伝達できないわけではないのだろうし、まだまだ変化していくのだろう。

本が物語を伝えるためのひとつのコンテナ形式であるとするならば、音楽が楽譜→レコード→CD→データと形を変えていったように、物語を運ぶコンテナは人々が便利だと思うものに必ず変わっていくはず。

結局、デジタルデータ化された物語と、紙の上に印刷された物語の間には、ただ単にそれが摂取しやすいかしにくいかくらいの違いしかない。現在本のほうが好まれやすいのは、単に今、音楽におけるiPodのような便利な情報摂取の仕組み/デバイスがなく、利便性や好みの問題で紙ベースのものが優位なだけなんだろうと思う。

多分、紙の本か電子書籍か、という戦いではなく、紙よりも便利で好ましい何かを作れるか否か、という戦いなんだろうし、この戦いはこの先もずっとずっと続くんだろうね。

2011年4月16日土曜日

2011年4月16日

ふと思ったのだけど、ソフトウェアのアップデートを促すダイアログは、ソフトウェア起動時ではなくソフトウェアの終了時に出すべきではないか。
というのは、ソフトウェアを起動した瞬間というのは何かしら行いたいタスクがある時であって、そこでアップデートの手続きを入れることで、タスクに向かっていた関心や集中を奪うことになるから。ソフトウェアの終了の時であれば、タスクとしては完了しているので、その後にアップデートのタスクが挟まったとしても大きな影響はない。

いや、っていうかまあ、どこかに通知だけさりげなく出して、好きなタイミングで更新できるようにしたらいいのかな。ついでに言えばそんな余計なダイアログとかなしにさっさとバックグラウンドでアップデートしてしまってもらっていっこうに構わない場合も多い気もするのだけどね。

2010年12月29日水曜日

2010年12月29日

大前氏 アップルは失敗繰り返しアンドロイドに負けると予測
http://www.excite.co.jp/News/world_g/20101228/Postseven_9051.html

勝ち負けの基準が「シェア」だというならそうだろうけど、その基準は何か意味があるのだろうか。企業が得なくてはいけないのは企業規模に対して必要十分な利益、であって、必ずしもシェアではないだろうし。

数がとれればいい、っていう考え方は、もうそろそろ終了でいいと思う。

2010年12月6日月曜日

2010年12月6日

ネット以前はコンテンツを広く多くの人に配布しようとすると、CDや本などの物理的な媒体を作らなくてはいけなかったために、大きなリスクを背負い込まなくてはいけなかった。だからこそ出版社というものが企業としてリスクを負って、大きなお金を動かして売る事に意味があったし、リスクを大きく取っていたのが企業であったのだから、お金の配分にしても作家側よりも企業側が有利になる構造になるというのも妥当であった。

ネット以降は、配布におけるリスクを徹底的に最小化することが可能になってきているし、配布コストも限りなく下げていく事が可能にはなっている。そうなると、企業というものが間に入る必要はかならずしも、ない。

こういう背景を下敷きにすると、コンテンツを作ることのできる人の立場というのは強くなっていきそうだし、権利関係の交渉ごとなどの場でも以前と比べればかなり強気に出られるようになっていくんじゃないかな、というのをJコミの件などあれこれ見ていて思った。

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ライブハウス方面を面白くする方法:
常に必死になってよりよいバンドを見つけてきて集客もしていかないと確実にライブハウスがつぶれるような仕組み/ルールを作って追い込む