2011年11月24日木曜日

2011年11月23日

お金を稼ぐ、というか資産として所有する数字の大きさを競うというゲーム環境を考えると、多分ゲーム内のルールに反しない範囲で一番ズルいことをした人が最も効率よく数字を大きくしていけると予想される。


たとえば100円で買った壺を「霊験あらたかだ」といって100万円で売れれば利益はとてつもなく大きい。倫理やモラルだとかいった話を持ち出せば「カッコ悪」という話なのだが、しかし数字や効率を求めるならそれこそが理想的な姿だという見かたもあり得…てほしくないなぁ。
とりあえず正義面した悪徳商法をみんなで目指しているように見える瞬間があって時々げんなりする。

数字ではなくて産み出した価値とかそういうものをベースに褒める仕組みとか、何かしら仕組みや評価の上でのパラダイムシフトが必要な気がする。


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最近のWebが気に入らない試論の続き。

Webがソーシャル化し、何を知っているか、よりも何を知っている誰とつながっているか、が大事になりつつある。
自分が必死に賢くなろうとするよりも、賢いだれかと繋がって情報を得るほうが効率がよい。なるほど。

では、そういう環境になった場合、情報を持つ側の人がより多くの人の支持/つながりを得るために取るべきであろう戦略はどうなるだろうか。

知っていることのアピールはしつつ、その具体的内容は伏せ、つながった人にのみ情報を与えるような形になるのかもしれない。

すると情報が属人的/クローズドになっていき、人と繋がることが苦手な人は良質な情報を得ることが難しくなることもありうる。また、オープンなWeb上に残るのがやや質の低い情報ばかりになる可能性もなくはない。

極論だけど、「あの人に聞けばわかる」から「あの人に聞かないとわからない」になったとしたら悲劇だ、とも思う。

そういえば前にジャーナリストの人が「情報格差社会」のような事を言っていていまいちピンときてなかったのだけど、なるほどつまりはこういうことなのかな。

自分はどちらかというとソーシャルスキルも高くないほうだし、そういう種類の人にシンパシーを感じると同時に、そういう非社会的な人から生まれる発想や発明というのは世に必要なものだとも感じる。非社会的な人間が、人とつながらずとも、賢くなりたいと思った時に賢くなるためのリソースは、情報共有の先端の場であるWeb上にあってほしい。

本当に良質な情報を、オープンなWeb上にきちんと蓄積していくための仕組み、動機づけみたいなものをしばらく考えてみたい。


下克上のない世界なんてクソくらえだよ。

2011年11月11日金曜日

2011年11月11日

経済学方面の本を読みながら、何か妙な違和感があったので色々考えていたのだけど。

世の中は貨幣というものを中核に据えて色々なものごとや仕組みが考えられている。
しかし、どうもIT/Web技術の進展の先に、貨幣を中心に考えられている今現在の経済というものを破壊する可能性のようなものがちらりと見える気がして、そんなことをぼーっと考えていた。

たとえば、モノとモノを直接交換してしまえば、お金のやりとりなしに価値の交換ができる。

サービスについてもたとえば「俺掃除やっとくからお前ご飯つくって」といった交換のしかたをすると、お金を間に挟まずに価値の交換ができる。

しかしこれには双方のマッチングが簡単にできないという問題があって、だからこそ、お金を間にはさむと便利だからお金が便利に使われているわけなのだけど。

で、そこにWebやIT技術を注入してみると、そのマッチングコストを結構下げることができるかもしれない。もしかすると、労働やサービスの多くを、物々交換のようなモデルで運用することも、もう少し先の未来にはありえなくないかもしれない。

そうなると、貨幣の流通量だとかそういったものでは、世間の「経済活動」の全てを把握することが難しくなるし、たとえば収入をベースに税金を算出することの限界とか、じゃあ政府的なものはどうやって税収をあげるんだろう、とか、あれやこれやと問題が噴出してきて、脳内がかなり面白いことになった。

もちろん、そんな未来はすぐにはこないだろうけど、色々と経済学方面は転換期なんだろうなーと素人ながらに思ったりしている。

2011年11月1日火曜日

2011年11月1日

http://www.tsutagra.go.jp/

お題を国が決める時点で面白くないし。
出ているデータや提案が本当に正確で優れたものかどうかわからないし。
ある種のプロパガンダ的なものになりかねないし。

それ以前に何をどう見ても流行らなそうだし。

それなりに大きな金額動いてそうだし、税金の無駄遣いにもほどがあるって怒ってる人いるかなーと思ってtwitter検索してみたら割と好意的に見ている人が多くてちょっと驚いた。




「ツタグラ」がどれほどダメか、という点についてインフォグラフィックで表現してみたいと一瞬思ったけどそんなことをやってる時間があったら別のことやったほうがいいか。


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このところ行動経済学とかゲーミフィケーションとかについての本を読んでいるのだけど、つくづく人間というのは合理的でなく、感情的な生き物だなぁとあれこれ面白い。

2011年10月6日木曜日

2011年10月6日

Appleとはどういう企業であったか。必ずしも最先端ではないかもしれないがクールなプロダクトを常に作り、ユーザエクスペリエンスにこだわり続ける企業。

今、Apple.comのトップページがSteve Jobsの写真のみになり、その死を告げている。
iPhone4Sを発表し、その情報を求めサイトを訪れる人がいるはずのこの時期に、だ。

その写真は、Appleらしさに満ちている。
しかしそれはクールでもなく、ユーザのためのものでもない。
ただ暗澹とした死の告知。
それがAppleの顔であるWebサイトのトップページにある。
そのことが、なんとも皮肉げにSteve Jobsの不在を語っているような気がしてならない。

2011年9月30日金曜日

2011年9月30日

「情報の大量生産・大量消費時代」っていう言葉がふと脳裏をよぎった。

情報っていうのを財とみて、インターネットを一つの市場?として、情報経済学みたいな事とか考えてみるのも思考実験として面白そう。
情報バブルが弾けるとかそういうことってあるのかな、とか、そうなったらその後何が起こるかとか、あれこれ。
…やはり一度経済方面のことはちょっと本腰入れて勉強しておいたほうがいいか。

とりあえず、「お金に働かせてお金を得る」みたいに、情報が情報や価値を生み続けるような、そういう「情報資産」のストック、を意識してやってみる、っていうのはテーマとして面白そう。
とか適当なことを書いてみてるけど実際どういうふうにやるのかは全くよくわからない。

2011年9月28日水曜日

2011年9月28日

なんとなく気に入らない。
ここ数年のWeb、Blog以降のWebが。
Blogにより誰もが日々の最新を更新し始める。
SNSにより情報の流れが変わり、友達の「今」を知る。
Twitterによって「なう」が共有されていく。

情報が結構な速度で目の前を流れていく。

でも、その大部分は、3日後には全く無意味になる。
そこではたと思うのだ。

「僕は本当にそんな"先端"の情報が欲しいのだろうか?」

本当に僕が得たいのは、たとえばおいしい料理のレシピではなくて、それを作るための緻密な知識やカンどころだし、優れたデザインを作るための「How」ではなく「Why」の部分、本質的な部分だし、それらはやはり、現在主流の各種投稿フォーマットからはできあがっていきづらいコンテンツのように思える。

やはり、もう少し遅くてもいいから、きっちりと整理され、編集された情報がほしい。
摂取にかかる単位時間あたりに十分な密度を持った情報が欲しい。

まあ、そんなもの、別に雑誌なりなんなり別のメディアから摂取すればいいだけの話なのだけど。

とりあえず、この「気に入らない」感覚を、もうちょっと強く先鋭化させてみる。

2011年9月27日火曜日

2011年9月27日

このところ結構G+でbejeweled blitz(ゲーム)をやってて。
いや、別にヒマなわけじゃなくて、むしろ多忙期ではあるのだけど。

実はMacにSwitchして、わりとすぐにキーボードレイアウトとか色々慣れたのだけど、どうにもマウスのカーソル速度のWinとMacの微妙な違いだけは慣れることができずにいて、グラフィック系のソフトの操作がストレスになっていたので、その補正というか調整という目的でやっていた。
いや、もちろん、この手のパズルゲームが好きだというのもあるのだけれども。

で、やりながら今更ながら思ったことなのだけど、「何かの操作に慣れる」とかいった、ある意味「苦行」なことでも、ゲームという皮を被せるとなかなかもって心理的障壁が下がるものだなぁと。そういえば自分も最初にきちんとタイピング覚えたのは大学のPCに入ってたタイピングのゲームみたいなやつのおかげだったわけだし。
この辺の発想はUIでも何の分野でも持っておかないといけないなぁと思ったりした。

そもそも遊びっていうのは、何か難しいことを疑似体験させて学習させるような意図のこもったものが多くあって、個人的にはやはりそういう種類の「遊び」をもっと世の中に増やしたいなぁと、そんなことを思う。

2011年9月22日木曜日

2011年9月22日

「某Z社のソーシャルゲームは、システム的にも設計思想的にもMMORPG的な作り方で作られてる」という話を聞いて、実際にやってみて、何か妙に色々腑に落ちたというかなんというか。

今更ながら、なるほどソーシャルゲームって、設計思想としてはほんとMMORPGなんだなぁと。MMORPGに、リアルな友達とのつながりに基づく人のネットワークを組み合わせれば、そりゃ、MMORPGとしては面白くもなりやすい。
普通のMMORPGで難しく、けど一番大事なのは多分そのゲーム内での「仲間」をどうやって集めるか、というところで。そこをSNSというもので補えるというのは強い。なるほど。

2011年9月19日月曜日

2011年9月19日

なんとなく、周囲の空気だったり、周囲の関心だったり、そういうものに流されている気がしたので、これまで作ってきた情報環境を全部壊すことにしてみた。

ひとまずRSSリーダーに登録していたフィードは全て破棄。
Twitterクライアントは全てアンインストール。
G+は本当に関心のある人だけのフォローに絞込み中。

何がしたいかというと要するに、もっとちゃんと自分が主体的に情報を収集せざるを得ない状況にしたい。完全に自分の好奇心だけに基づいて情報を収集しに向かっていきたい。Streamに流れてくるものを受身で読むのでなく。

ダラダラと流れてくる情報でも、何か流れてきたらついそれについて考えてしまう。Twitterで何か議題があれば何か面白い事を言えないかと考えてしまうし。そしてそれを考えているうちに他の事がどんどん疎かになる。

世間でたとえばiPhone5が出ようが、新しいVOCALOIDが出ようが何が起ころうが、自分が関心を持っていなければそれに関わる情報を摂取する必要はないし、それに関わる議論に参加する必要もない。

っていうふうにちょっと追い込み気味にしていかないと本当にただのつまらない情報器用貧乏になるだけではないか、という気がしてぞっとした。

…とか言っておいて数日後にさらっと手のひらを返しているかもしれないけどね。

2011年9月7日水曜日

2011年9月7日

たとえばTwitterにDMが届いて、
DM通知をONにしていると、当然DMが届いたことがメールで送られてくる。
が、その時にすでに別のクライアントアプリなどでメッセージ確認済みの場合、DM通知のメールはただのいらない子で、その処理にかかる時間はたんなる無駄でしかない。

という意味で、何か「通知」を全部統一化して、一度ステータスが確認済みになったものはメールソフトやアプリ等すべての場で確認済になって削除されるような、なんかそういう仕組みができないものかとふと夢想した。

2011年8月13日土曜日

2011年8月13日

たとえば電話っていうのは非常に低音質なメディアなのだけど、そこに乗る音声の内容如何では人を泣かしたり感情をつき動かしたりすることができる。

これをたとえばハイファイにして高音質にしたからといって、何かが大きく変わるわけではない。ちょっとしたニュアンスは伝わりやすくなるかもしれないし、伝えられる内容がちょっと増えるかもしれないけど、結局重要なのは中身であって、その伝送品質から感動や感情が生まれるわけではない。

コンテンツ分野で「クオリティ」という言葉がよく使われるけど、例えば音楽の音質をよくしてmixをよくしてマスタリングをよくしたからといって、その「音質のよさ」が直接的に感動を生むわけではない。

というようなことを多分自分はもう少ししっかり考えるべきで、
つまり本当に人の心を動かす言葉や音、表現というものを、もう少し真剣に考え創るべきだ。
というようなことを今日ふと考えていた。


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foursquareのインターネット版、というか「いまこのサイトにいます」という事、そしてそのサイトの常連かどうか、みたいなことを共有できても面白いかもしれない、と思った。

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要するにネット上にカフェとかたまり場みたいなの作りたいんです最近。

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「レコードやCDなどに妙に重きが置かれているこの状況がそもそも異常」という考え方を見てなるほど、と思った。
音楽の歴史の上で音楽がパッケージ化され商品とされ流通するようになったのは楽譜出版以降の話で、著作権などもそのパッケージ商売の都合のためにあるようなもので。
それ以外の音楽のありかた(特にライブのようなもの)がなんとなく軽んじられやすいのはそれなりに不思議な状況だなぁと思う。

2011年8月6日土曜日

2011年8月6日

家にテレビがなくなったので、PS3+torne+PCのモニタでテレビからの情報を摂取するようにした。
torneだと、今torneユーザによって録画予約されてる数が番組ごとにわかるのだけど、それを見ているとかなりアニメが強いなぁ、という印象。そしてそれに比べて音楽番組の弱さったらもうね。

もちろん、torneで録画をする層というのはものすごく偏っているわけなので、偏ったクラスタにおけるサンプルだし、これが世間だとは思ってはいけないのだけど。

確かにこのご時世、学校とかで話題にするのに、音楽よりはアニメとかのほうがよさそうだなぁとは思うし…っていうか中高生の話とか聞いてみたいなぁ。

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つくづく正直にならざるを得ない時代だと思う。
隠そうとしても飾ろうとしても全部見透かされる。
だから正直でいればいいとそんなことを思う。

2011年8月5日金曜日

2011年8月5日

http://getnews.jp/archives/133829

釣り記事かなぁ…これはひどい。
科学的な根拠や論拠、裏付けなどがなくて言うものは「感想」であって、「議論」の俎上に乗せるような「主張」ではない、と個人的には思います。だって反証できないものそんなもの。
議論っていうのは相手の主張に含まれる論理、もしくは前提としている知識や情報に誤りがないかを明確にしていくことで、「感想」をぶつけあっていくことではないですたぶん。

2011年8月1日月曜日

2011年8月1日

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51708664.html

科学と信仰はものすごく近いものだ、と思う。というか、自分の中では何割か同一視されている。実際、現在科学の領域とされる部分の多くはかつて宗教の領分だったし、かつて宗教の領域だったものの多くが現在科学の領域内にある。

両者ともに、それは自分を取り囲む世界の情報と、自分の知っていることを結びつけて、情報を解釈し、理解する働き。両者の違いは、理解するための材料や根拠が「科学的」と呼ばれる種類の、理知的で緻密で観測をベースにしたものであるか、神様のような証明不能で信じるしかないようなものか、という点。

たとえば洪水が起こったとして、それを「増水のメカニズム」「雨量」など観測的事実や理論をもとに理解するのが科学。「神の怒り」として理解するのが信仰。

信仰も科学も幸福のためではなく、不安の解消のためにある。

たとえば先の地震。突然に地面が大きく揺れ、様々なものが破壊されるとか、それはそれは恐ろしいことだし、どれくらいの頻度で起こるかもわからなければ、翌日から毎日が恐怖と不安でたまらないだろう。

それをプレートテクトニクスで説明する。神の怒りだと説明する。どんな形でもいい。「きちんとスジの通った説明」がなされ、それを受け取った側が納得し、受け入れればそれが「安心」につながる。

周囲を見回してみれば金融システムやら保険やら様々なサービス、家、社会、ルール、法律、様々なものが「不安」を避けるために構築されていて、世の中というのは思っている以上にシンプルな感情に支配されているのかもしれないと時々感じる。

2011年7月31日日曜日

2011年7月31日

http://d.hatena.ne.jp/kkbt2/20110727/1311778597

なんとなく思い出したのはナガオカケンメイさんのこのエントリの一節なのだけど。

若者の免許離れは、決して「食べていけないくらいの生活苦」だからという理由だけではない。僕らの時代も生活は苦しかったけれど、考えられないローンを組んで服や車をローンで買ったりした。1週間なにも食べられなくなるとわかっていても、ローランドのシンセが欲しくてローンで買ったりしたもの。

バブル時代のような時期は、自分の身の丈よりも少し高いものを、多少借金などして手に入れても、収入などの伸びがそれをカバーできる可能性めいたものがみえていたのではないかと思う。全てが楽観的であり、だからこそ、「今」借金してでも、何かを感じさせてくれる高価なモノを買うという選択肢があり得たし、そこに幸福感もあった。

今、終身雇用が壊れて、景気もなかなか上向かない今は、たとえば1年後の給料が、今より多くなっている「予感」もなければ、むしろ減っている可能性まで考えなくてはいけない。将来に対して楽観的でいられない、そういう時代だとなんとなく感じている。

そんな時代に、身の丈に合わないものは買えないし、支払う金額に見合う実質的な価値のないものにお金は払えない。借金をして何かを買うというのは、単に不安を増やす行為でしかない。ブランドだとかステータスだとか、そういう得体の知れないものにお金を払うことなどとてもできないし、モノに夢を見るなんていうこともない。

こういう状況に置かれてしまうと、自然と消費すること、モノの「価値」に敏感になる。果たしてこれは本当に自分を幸せにするものなのか。車を持つのが普通というけど、車をもつことで得られる利得はどれほどのもので、それは支払う金額に見合う内容なのか。高価なブランドものの服を買って着る価値はあるのか。ユニクロでいいんじゃないか。いや、むしろユニクロ「が」いいんじゃないか。

そしてこの考え方は、同時に自分のやることの価値や意味、という方向にもフィードバックを返してくる。果たして自分の仕事は意味があるのか。どれくらい価値があるのか。誰にとって嬉しいのか。

公務員だとか主婦だとかいった選択肢に透けて見えるのは、「安心」「安全」だし、NPOみたいな選択肢には「承認」とか「誰かの役に立っている実感がほしい」。これはつまり、裏返せばその部分が満たされていない、という思いを多くの人が抱いている、ということなのかもしれない。

そんなこんなで、自分としては価値観がより洗練されていくこの状況に対してはポジティブな見方はできるのだけど、同時にそれほどまでに不安感を抱えてしまっているかもしれない点は、そこまでポジティブに見てはいない。

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ボランティアだったりNPOだったりといった考え方は個人的には好まない。

Webサービスの現場にいた時に強く思ったことなのだけど、何かのサービスを提供している時に一番避けるべきなのは「そのサービスを止めること」だと思う。
だからこそ、サービスを提供する者は、収益化することに常に真剣に挑んだほうがいい。

奉仕活動だって、それをきちんとサービス化して収益化できれば、活動をより長く安定的に続けることができるし、より多くの人を喜ばせることができる。
個人で気まぐれにボランティアで何かをするよりも、それを何らかの形で事業化して大きくするほうが生み出せる幸福の総量はぐっと大きくなる。

それを目指さずに、収益化もせずにただ一時的にサービスを提供することは単なる自己満足以外の何者でもないと思うし、だからこそきっちりと収益化やお金にする部分を意識したほうがいいし、なによりそのほうが面白い。

2011年7月30日

http://satoshi.blogs.com/life/2011/07/shinto.html

こういうネタに対しては敢えて反対の立場で書くのを信条としているのでそういう立場で書く。

・「今、国を動かしているのが官僚」なら、政治家はほっといて官僚がもっと優れた仕事をできるようにするように何かを変えたほうが効率がよいのではないか。官僚の活動に民意が反映されざるをえない仕組みを作ることはできないのか? 少なくとも東大出てるような頭のよさそうな人がたくさんいそうなわけだし。


・「民意を反映した政策」とういのが優れた政策であるとは思えないのだがどうか。たとえばインターネット上での集合知は、母数が大きくなっていくにつれて衆愚の様相を呈してきた例がこれまでにいくつかあるし、過程に多くの人が関わったプロダクトは無難ではあるが優れたものにならない、という話はモノ作りの現場でよくあることのように思える。

同じように、「投票」による政策の決定というのもあまりいい結果を導き出さないのではないかと思う。各問題や政策に対して一般の人が十分な知識を持っているとは考えられないし、容易くメディアの情報に踊らされて妙な判断を下す人も未だ多い。懸案事項を十分に理解して優れた策を選び出せる可能性がどれほどあるかが疑問。

また、こと政治に関しては、現状で平均的な人はあまり強い関心を持ってない。そうするとその「新党」周辺に集まってくるのはいわゆるプロ市民みたいな人であったり、政治に一言言いたい種類の人が多くなり、母集団としてかなり偏った集団になりそう。そこで投票などしようものなら、相当なバイアスがかかって、世間一般の感覚からはズレた案、政策が主流になる可能性がある。

といった事を打開する上で、たとえば政策の背景にあるものを公平に解説するメディア的なものを持ち、十分な説明や解釈がなされ、議論がなされればいいかもしれないけど、それをひととおりきちんと咀嚼して判断できる、知性的にも時間的にも余裕のある人というのは世間でも少ない。特に忙しく働く若い人がそんなことに参加できる余裕があるとも思えないし、そうすると結局民意ではなくて一部の富裕インテリ層の時間のある老人による判断になるかもしれない。いずれにしても何かしらのバイアスが強くかかりやすい。

というか、ここまで書いて思ったのだけど、Webで政策に対して投票するのと、政治家に対して投票するのには意義としてもやってる事としても大きな違いもないし、それをする時間的コスト等々に対するメリットがどれほどあるのか、というのも大きな疑問。

また、メルマガの収益による当選順位というのもあるけど、その数字はおそらく人気取りの上手い下手のようなもので簡単に変動する。ちょっとテレビに出て知名度があるとかそれくらいのことで変動するような数字をベースにするべきでない。ので、きちんと出している政策の価値などで判断するべきだけど、それを判断するのを一般民衆でできるとも思えないし、いずれにしてもあまりいい形に収束するとは思えない。

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っていうか、根本的に党の仕組みがどうとかそういう問題じゃないと思うのですね。

こんな仕組みでないと民意を汲みとっていい政策が出せない、いい政策を実行に移せないような政治家が政治をやっているかもしれなくて、実際うまく動いてない、ということが最大の問題で。

政治家がちゃんと民意というものを考えて、ビジョンを示して、実行していればいいだけだし、そういう政治家の存在を明らかにして、そういう人に自分たちが投票して支えればいいだけの話で。

まず知りたいのはそれができないのが何故か、っていう話で、その原因を根治しない限り、政党の仕組み程度を変えたくらいではほとんど意味はなさそう。

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とにかく今の政治の現場には、才ある人が集まる理由がまったくない。どう考えたって政治家というのはこの国では確実に損な役回りだし、頑張っても褒められもせず、ちょっと失言の一つでもすれば叩かれるようなところにわざわざ出て行くとか正気の沙汰とも思えないし。カンのいい本当に優れた人だったら政治よりもビジネスの世界を志向して、そこで利益や地位や名誉を得ることを目指すだろうし。

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ちなみにこういう仕組みの政党、自分も前に考えていたことがあるのだけど、
自分の考えていたものの場合は完全に「政治に目を向けさせる」ことしか志向してなくて、政治家はネットの操り人形として存在していて(どこぞのニートでも誰でもいい)、政策はみんなであーだこーだと考えて、2ちゃんねるあたりでこの政治家をどう操るかの安価スレが立つような、そういうものとして考えていた。
政治を遊び場にして荒らして、かませ犬、スパイス的な立場で政治の世界に刺激を与え、エンタメ化して人々の目を向けさせる。そうしているうちに、次第に政治の理解が深まって、本当にちゃんとした政策を出すように変化していくのを狙う、という。

2011年6月9日木曜日

2011年6月9日

いつの時代にもコンテンツはコミュニケーションの媒体という役割が大きくあって、じゃあ今こうしてコミュニケーションのためのツールや環境が変化してきている環境下ではコンテンツというものの意味や立ち位置というのはどう変化するだろう、っていうことがなんとなくひっかかったのでなんとなくメモ。

2011年5月14日土曜日

2011年5月14日

とある電子書籍系サービスの新しいブックリーダ的なものが公開されていて、その内容は「綺麗に縦組みできるようになってきてるよ!」というものだったわけですが。
正直、PCの画面上で見る縦書きの文章というのはなんというかすごく違和感があって、個人的には非常に読みづらかったし、内容が全く頭に入ってこなかった。

現状、PC上で読む文章というのはほとんど横組みだし、UIも左から右という視線の流れを前提に組み立てられている環境の中で生きているわけで。その環境で果たして縦書き、というのはあるべきものなのか、いいものなのか、優れたものなのか。

なんで縦書き?と尋ねると、組版などに関わる人はきっと「そっちのが読みやすい」という答えを出してくると思う。まあ、古くから日本の文字は縦書きが前提のものだったし、実際、特に本文組に適していると言われるような日本語フォントは、縦書きにしたほうが流れも良くきれいで読みやすい、というのは認める。

ただ、それは文章にひらがな、カタカナ、漢字と、あとはせいぜい数字が入るくらいだった時代の文章ではそうだったかもしれないけど、今のようにわりと日常的に書く文章の中にアルファベットが多く含まれている時代を前提にすると、どうだろう。アルファベットが含まれた途端に縦書きはものすごく読みにくくなる気もするし。

実はもうとっくに縦書きなんていらないんじゃないか。もしかして、もしかする。

2011年5月12日木曜日

2011年5月12日

「本の未来」みたいな話を読んでいて思ったのだけど、電子書籍だなんだとかいう以前に、そもそも本ってなんなんだろうね。
物語や情報を伝達する手段として、今自分たちのイメージする印刷物としての本の前には写本だとか木簡みたいなものがあって、そこからさらにの前には口伝があって、そこからさらに遡ると言葉の発明がある。ってことは、多分まあ、本という形はこの時代のテンポラリなもので、別に本という形式でなくては物語を伝達できないわけではないのだろうし、まだまだ変化していくのだろう。

本が物語を伝えるためのひとつのコンテナ形式であるとするならば、音楽が楽譜→レコード→CD→データと形を変えていったように、物語を運ぶコンテナは人々が便利だと思うものに必ず変わっていくはず。

結局、デジタルデータ化された物語と、紙の上に印刷された物語の間には、ただ単にそれが摂取しやすいかしにくいかくらいの違いしかない。現在本のほうが好まれやすいのは、単に今、音楽におけるiPodのような便利な情報摂取の仕組み/デバイスがなく、利便性や好みの問題で紙ベースのものが優位なだけなんだろうと思う。

多分、紙の本か電子書籍か、という戦いではなく、紙よりも便利で好ましい何かを作れるか否か、という戦いなんだろうし、この戦いはこの先もずっとずっと続くんだろうね。

2011年4月16日土曜日

2011年4月16日

ふと思ったのだけど、ソフトウェアのアップデートを促すダイアログは、ソフトウェア起動時ではなくソフトウェアの終了時に出すべきではないか。
というのは、ソフトウェアを起動した瞬間というのは何かしら行いたいタスクがある時であって、そこでアップデートの手続きを入れることで、タスクに向かっていた関心や集中を奪うことになるから。ソフトウェアの終了の時であれば、タスクとしては完了しているので、その後にアップデートのタスクが挟まったとしても大きな影響はない。

いや、っていうかまあ、どこかに通知だけさりげなく出して、好きなタイミングで更新できるようにしたらいいのかな。ついでに言えばそんな余計なダイアログとかなしにさっさとバックグラウンドでアップデートしてしまってもらっていっこうに構わない場合も多い気もするのだけどね。