2011年8月13日土曜日

2011年8月13日

たとえば電話っていうのは非常に低音質なメディアなのだけど、そこに乗る音声の内容如何では人を泣かしたり感情をつき動かしたりすることができる。

これをたとえばハイファイにして高音質にしたからといって、何かが大きく変わるわけではない。ちょっとしたニュアンスは伝わりやすくなるかもしれないし、伝えられる内容がちょっと増えるかもしれないけど、結局重要なのは中身であって、その伝送品質から感動や感情が生まれるわけではない。

コンテンツ分野で「クオリティ」という言葉がよく使われるけど、例えば音楽の音質をよくしてmixをよくしてマスタリングをよくしたからといって、その「音質のよさ」が直接的に感動を生むわけではない。

というようなことを多分自分はもう少ししっかり考えるべきで、
つまり本当に人の心を動かす言葉や音、表現というものを、もう少し真剣に考え創るべきだ。
というようなことを今日ふと考えていた。


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foursquareのインターネット版、というか「いまこのサイトにいます」という事、そしてそのサイトの常連かどうか、みたいなことを共有できても面白いかもしれない、と思った。

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要するにネット上にカフェとかたまり場みたいなの作りたいんです最近。

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「レコードやCDなどに妙に重きが置かれているこの状況がそもそも異常」という考え方を見てなるほど、と思った。
音楽の歴史の上で音楽がパッケージ化され商品とされ流通するようになったのは楽譜出版以降の話で、著作権などもそのパッケージ商売の都合のためにあるようなもので。
それ以外の音楽のありかた(特にライブのようなもの)がなんとなく軽んじられやすいのはそれなりに不思議な状況だなぁと思う。

2011年8月6日土曜日

2011年8月6日

家にテレビがなくなったので、PS3+torne+PCのモニタでテレビからの情報を摂取するようにした。
torneだと、今torneユーザによって録画予約されてる数が番組ごとにわかるのだけど、それを見ているとかなりアニメが強いなぁ、という印象。そしてそれに比べて音楽番組の弱さったらもうね。

もちろん、torneで録画をする層というのはものすごく偏っているわけなので、偏ったクラスタにおけるサンプルだし、これが世間だとは思ってはいけないのだけど。

確かにこのご時世、学校とかで話題にするのに、音楽よりはアニメとかのほうがよさそうだなぁとは思うし…っていうか中高生の話とか聞いてみたいなぁ。

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つくづく正直にならざるを得ない時代だと思う。
隠そうとしても飾ろうとしても全部見透かされる。
だから正直でいればいいとそんなことを思う。

2011年8月5日金曜日

2011年8月5日

http://getnews.jp/archives/133829

釣り記事かなぁ…これはひどい。
科学的な根拠や論拠、裏付けなどがなくて言うものは「感想」であって、「議論」の俎上に乗せるような「主張」ではない、と個人的には思います。だって反証できないものそんなもの。
議論っていうのは相手の主張に含まれる論理、もしくは前提としている知識や情報に誤りがないかを明確にしていくことで、「感想」をぶつけあっていくことではないですたぶん。

2011年8月1日月曜日

2011年8月1日

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51708664.html

科学と信仰はものすごく近いものだ、と思う。というか、自分の中では何割か同一視されている。実際、現在科学の領域とされる部分の多くはかつて宗教の領分だったし、かつて宗教の領域だったものの多くが現在科学の領域内にある。

両者ともに、それは自分を取り囲む世界の情報と、自分の知っていることを結びつけて、情報を解釈し、理解する働き。両者の違いは、理解するための材料や根拠が「科学的」と呼ばれる種類の、理知的で緻密で観測をベースにしたものであるか、神様のような証明不能で信じるしかないようなものか、という点。

たとえば洪水が起こったとして、それを「増水のメカニズム」「雨量」など観測的事実や理論をもとに理解するのが科学。「神の怒り」として理解するのが信仰。

信仰も科学も幸福のためではなく、不安の解消のためにある。

たとえば先の地震。突然に地面が大きく揺れ、様々なものが破壊されるとか、それはそれは恐ろしいことだし、どれくらいの頻度で起こるかもわからなければ、翌日から毎日が恐怖と不安でたまらないだろう。

それをプレートテクトニクスで説明する。神の怒りだと説明する。どんな形でもいい。「きちんとスジの通った説明」がなされ、それを受け取った側が納得し、受け入れればそれが「安心」につながる。

周囲を見回してみれば金融システムやら保険やら様々なサービス、家、社会、ルール、法律、様々なものが「不安」を避けるために構築されていて、世の中というのは思っている以上にシンプルな感情に支配されているのかもしれないと時々感じる。