たとえば100円で買った壺を「霊験あらたかだ」といって100万円で売れれば利益はとてつもなく大きい。倫理やモラルだとかいった話を持ち出せば「カッコ悪」という話なのだが、しかし数字や効率を求めるならそれこそが理想的な姿だという見かたもあり得…てほしくないなぁ。
とりあえず正義面した悪徳商法をみんなで目指しているように見える瞬間があって時々げんなりする。
数字ではなくて産み出した価値とかそういうものをベースに褒める仕組みとか、何かしら仕組みや評価の上でのパラダイムシフトが必要な気がする。
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最近のWebが気に入らない試論の続き。
Webがソーシャル化し、何を知っているか、よりも何を知っている誰とつながっているか、が大事になりつつある。
自分が必死に賢くなろうとするよりも、賢いだれかと繋がって情報を得るほうが効率がよい。なるほど。
では、そういう環境になった場合、情報を持つ側の人がより多くの人の支持/つながりを得るために取るべきであろう戦略はどうなるだろうか。
知っていることのアピールはしつつ、その具体的内容は伏せ、つながった人にのみ情報を与えるような形になるのかもしれない。
すると情報が属人的/クローズドになっていき、人と繋がることが苦手な人は良質な情報を得ることが難しくなることもありうる。また、オープンなWeb上に残るのがやや質の低い情報ばかりになる可能性もなくはない。
極論だけど、「あの人に聞けばわかる」から「あの人に聞かないとわからない」になったとしたら悲劇だ、とも思う。
そういえば前にジャーナリストの人が「情報格差社会」のような事を言っていていまいちピンときてなかったのだけど、なるほどつまりはこういうことなのかな。
自分はどちらかというとソーシャルスキルも高くないほうだし、そういう種類の人にシンパシーを感じると同時に、そういう非社会的な人から生まれる発想や発明というのは世に必要なものだとも感じる。非社会的な人間が、人とつながらずとも、賢くなりたいと思った時に賢くなるためのリソースは、情報共有の先端の場であるWeb上にあってほしい。
本当に良質な情報を、オープンなWeb上にきちんと蓄積していくための仕組み、動機づけみたいなものをしばらく考えてみたい。
下克上のない世界なんてクソくらえだよ。