2014年12月19日金曜日

2014年12月19日

左の鎖骨を折ってしまい、左手に力が入れづらい感じになってしまった。
こういう時に限って冷蔵庫には食べ物のストックなどがあまりなく。
牛乳など色々欲しいのだけど、買いに行くのを想像すると、片手で買い物するのはそれなりにハードル高いなぁと思って躊躇していたところ、「ネットスーパー」というもののことを思い出した。

前に風邪を引いた時に使おうとした時は、数日後にならないと届けてもらえない感じだったので使えず、やむなくげほげほ言いながらがんばって買い物に出たものだけど、今回は今日中に届くみたいだったので早速注文。

届いてみると、「ああ、これは便利だなぁ」という域を超えて「ありがたや…」という心地になった。
食べ物のようなライフラインに近いものが、身体的な事情などで買い物に行けない状態になったときにも、普通の人と同じように手に入る。これはなんとも豊かなことだなぁとしみじみと思ったりした。

豊かな社会というのは、かように弱い立場の人も豊かに暮らせる場のことなのであろうし。
こういうふうに「ありがてぇ」って思われるようななにかを作りたいものです。

その他にも、左手が使えないことで、両手が使えることがいかに便利かを実感してみたり、色々な経験ができていて、鎖骨一本折るくらいでこういう経験できるなら安いものだと思ってしまっているあたり、自分も何かの病気だなぁとつくづく思う。

2014年12月13日土曜日

2014年12月13日

たとえば「最先端」で検索してみたら、
見つかったページに書いてあることが「数年前における最先端」であった、
というようなことがよく起こる。

Webに蓄積された文書が多くなればなるほど、outdatedなものが有用なものとして検索されてしまう確率が高まるよなーと思うにつけ、
そろそろ別な発想のインプット〜アウトプット〜検索の仕組みが必要なのだろうなぁと思うのだけど
具体的にどうしたらよいかはノーアイデアである。

2014年12月2日火曜日

2014年12月2日

やはり、以降「デザイン」という言葉を使用しないことにしようと思う。
「スタイリング」とか、「設計」とか、そういう言葉のほうが明らかに適切だ。

2014年11月30日日曜日

2014年11月30日

自転車を買ったので、自転車の交通ルールについてググった。
警察署のページがひっかかってきたわけなのだけど、
なぜか知らないがそのページが都道府県警ごとにあって、基本的に書いてある内容は同じなのだけど(法律にもとづいて書かれているのだから当然なのだが)、微妙に詳しさ詳細さが違う。

交通ルールが県ごとに違うわけでもなし、最高にわかりやすいページを国とかで作ってリンクすればいいような気がするのだけど。なぜこういうことになっているのかまったく謎だ。

というのを見て思い当たったのだけど、
最近なんだか2chに回帰しつつある自分を感じるのは、
情報のフラグメンテーションというか、みんながそれぞれ好き勝手に書いているがゆえにきちんとまとまった情報を一箇所で得るのが難しい、という状況に原因がありそうだ。

2chは少なくとも板やスレッドの単位で情報がカテゴリ分けされ、そこに情報が集積するようになっている。
一方で今のWebは、それぞれが書きやすい場所で書きたいように書いているものを無理やり検索エンジンで横串さしている形。

前者のほうが(人と情報さえ集まれば)情報としてよい形になるのは必然な感じするし、
後者のような状況が主流だからキュレーションだとかまとめだとかそういうものがバズワードになるんだろう。
あまりいい状況じゃないよね、これ。

2014年11月25日火曜日

2014年11月25日

http://fladdict.net/blog/2014/11/nihonkeizai.html

自分も似たような感じだなぁと。

自分の場合は、できる限り自由でありたい、というのが頭のどこかにあって、その関係で

1.お金を持っていることは自由に繋がるのでお金はできるだけ得ておくほうがよさそう
2.モノを所有するというのは不自由を増やすのでよい選択肢ではない(自由になるのに役立つモノは除く)

っていうのが基本的な考え方になってる。
その考えがあるので「所有は極力避ける」「購入する必要のあるものは、リーズナブルなものを買う」っていう考え方が基本になっていて、リーズナブルか(得られる利得(?)に対して価格が妥当か)という観点で見ると、世の中の高級品の類のものはだいたい選択肢から外れる。
毎日美味しいものを食べるとかそういうことに対する欲はまったくないし、珍しいものを食べたいという好奇心的なものはあるけど、そんなに珍しいものが世にたくさんあるわけでもないしわりとすぐ飽きる。
コンテンツ的なものもリーチ可能な範囲にもう消費しきれないくらいあるし、
自分自身が移動したりすることがそんなにリーズナブルな行為じゃない感もあるし、
あとはたとえば趣味でやってる音楽制作なんかにはわりとお金使ってると思うのだけど、その辺にかかるコストも10年くらい前と比べると格段に下がってるから、正直そんなにお金を使う必要がなかったりもするし。

「ああ、なんかそんなにお金なくても楽しく生きていけるんだなぁ」という感じはここ数年ずっとある。

2014年11月24日月曜日

2014年11月24日

うは、これはまたすごい4年生が出てきたな!
って言いながら信じたフリして凸ってボロを出させたりして
相手が顔真っ赤にしている様子などをネタとして楽しみながら
遠回しに「それイケてないよ」って伝えるような
そういう底意地が悪くてユーモラスでほんのり優しいインターネッツが好きなので
釣ったほうも釣られてるほうも
とにかく全体的にクオリティ低杉、という感想です

------------

というかまあ、これが「アクセス数/関心収集至上主義的Web」の行き着く先なのかもしれないね、ということは気に留めておきたい。

2014年11月12日水曜日

2014年11月12日

モノと情報についてぼんやり考える。

たとえば「食べ物」そのものはモノとして存在しなければ意味をなさない。物質として体内に取り込まれなければ意味がないからだ。
一方で、食べ物の「食感」「美味しさ」「見た目」などは、神経から受け取る信号だったり、脳の下す判断だったり、つまり全て情報だ。
情報は全てハックできるとするならば、ある食べ物を食べている時に、全く異なる食べ物の情報をインジェクトして違う食べ物を食べている気にすることができるかもしれない。

というふうに考えてみると、実際にこの世の中で「モノ」として存在しないといけないものはどれほどあるのだろうか。


たとえば旅行で実際にその場に行くとか、モノに触れるとか、手触りがどうとか、そういうことが貴重なのは、インターネットなどの情報媒体から得られるものと比して、得られる情報量が圧倒的に違うからなのだ、という見方ができる。

じゃあ、仮に、その圧倒的な情報量を、ネットワーク越しにいつどこにいても得られるようになる未来があったとしたら、「実際に体験する」ということの価値はどの程度変化するのだろう。

-------------

色々なところをぐるっと回って、結局2ちゃんねるあたりが情報を得る場所として心地よくなってきた気がするのは気のせいか。
進んでるようであまり進んでない気もしないでもない昨今のWeb。この感じは何かを引き起こすにはよいタイミングなのだろうな。

2014年10月13日月曜日

2014年10月13日

ネット生活を幸せにする宗教 Virtual Religion
http://ja.virtual-religion.org/

面白いなーと思ったのだけど、

「ネット生活を幸せにする宗教 Virtual Religion」の違和感
http://d.hatena.ne.jp/nishiohirokazu/20141004/1412422604

こちらと近いところで違和感を感じた。

自分なりの理解として、宗教というのは「不安・不幸をいかにして軽減するか」というのが最も重要な役割だと思っている。

たとえば何か苦しい思いをしている時、そこに「それは神の与えたもうた試練である」という解釈を足すだけで少しは頑張る気力が生まれる。

各種災害だったり、ロクでもない親の元に生まれてしまうとか、病気になるとか、誰だって「なぜ俺ばっかり」的な不幸な目にあうことはあり、さらに言えば「なぜ、なんのために自分は存在するか」みたいなことだってある種の不安だ。
そこで、それを「神の与えた試練である」「前世で悪いことした」「あなたは神がお作りになられたのだ」のように解釈を与えることで、不安や不幸だというネガティブな感情を軽減・解消する。

そういう「不安を低減/除去するためのロジック」を核として、そこにそのロジックに矛盾しないように注意しつつ「不幸な目にあうことを減らす」意味で戒律などを足す、という感じで積み上げたものが宗教だと勝手に理解している。

といったわけで、Virtual Religionにはその「不安を低減/除去するためのロジック」が不足しているため、それを「宗教」と呼ぶのはどうも違和感がある。

----

…そいえばだいぶ前に、現代の世情に合うエセ宗教作ってみたかったんだったなぁ、というのを思い出した。タスクに積んどこ。

2014年10月2日木曜日

2014年10月2日

LDRが終わるそうなのでひとまずFeedlyを使ってみている。ちょっと余白が多すぎるのでCSS書こうかどうしようか悩むところ。

イマドキRSSとかRSSリーダーとか古い、みたいな発想もあるのだろうけど、たとえばSmartNewsとかまとめサイト的なものとか、ああいうものを自分のニュースソースとする場合、話題や世論を札束で作る人たちに対して非常に脆弱になる懸念があって非常に怖い。

自分の情報ソースは自分できちんと選別したいし、RSSリーダーに登録したフィードは自分の今向いている関心を適切に表現するという意味でも価値がある。

RSSやRSSリーダー的なものがこの先も滅びず、さらなる進化を遂げることを心より祈る。

2014年8月21日木曜日

2014年8月21日

情報の移動が次第に低コストになっていくことに関連して
物質の移動が相対的に割高になっていく
物質をできるだけ情報化すること、
物質の移動を極限まで減らすことで
もっと圧倒的にローコストに社会が動くのではないか
みたいなことを、このクソ暑い中道路にならんでエンジンふかしてる車の列を眺めながら思った。

2014年7月15日火曜日

2014年7月15日

コンテンツを最適化すると多様性は死ぬのか?
http://fladdict.net/blog/2014/07/death-of-diversity.html

この小説サイトがまださほどメジャーじゃなかった頃、どういうランキングだったか知らないのでなんとも言えない部分もあるのだけど、だいたいこういうのって、「コンテンツを最適化した結果」というよりは、見に来てる人の種類が変化した結果なのではないかなと。

ランキングというのはその場にいる人のうちの多数派の嗜好が反映されるものだから、利用者がマスにシフトすると、マスの持ってる価値観が正義になる。

マス的な価値観って、あまり振れ幅の大きい多様性を求めなくて、自分の知ってるものだったり、すでに好きなもの、世間的に価値ありと認められているもの+αくらいの領域が一番ハマる。

なので、マス的ないわゆる「普通の人」が増えると、その価値観によってCGMが染まって、閲覧数とかの数字は増えるがランキング上位に入るようなものの多様性は減る。
で、そういうものがランキング上位を占めた結果、数字を稼ぐために、そこに最適化されたコンテンツを狙って作る人も増えるし、流行ってるもの/ウケているものに憧れて参入してくる層も増えてくる。さらに、マイナー層のトガッた人はその状況がつまらなく感じて離れていくのでますます価値観が狭いところに収束しやすい。

ちょうどボカロ界隈が初期の多様性に富んだところから、若い/普通のリスナーが増えたあたりからロック寄りな方面が主流になってランキング上位に似たような曲増えた、みたいに、こういうことは創作系の分野(に限らずかもしれないけど)のランキングではよく起こる。

だから、「普通の人」が多く集まれば集まるほど、ランキングは(特にちょっととんがった人にとっては)大抵つまらなくなっていくし、そうなった場はコミュニティとしては(人が増えたという意味で)成功だし、そこで商売する人にとっては美味しいが、CGMとしては次の新しいムーブメントを生み出せなくなっている可能性が高く、トガった人はすでに離れて別の場を開拓し始めている可能性が高い。

2014年5月23日金曜日

2014年5月23日

googleで「ロフト 渋谷 営業時間」で検索したら、検索結果にでかでかと
  1. 10時00分~21時00分
    渋谷ロフト、 金曜日の営業時間
と表示された。元々は検索エンジンというのはサイトの情報を収集してそのページに誘導するためのものだったはずだが、最近は割と積極的に検索結果に求められているであろう情報そのものを出すようになってきている。

ユーザの気持ちからしたら至極まっとうだし便利なのだけど、じゃあWebサイトの役割、Webサイトを作る意味ってなんなんだ、ともやっとした気持ちになったりする。

だったらサイトとか作らなくても、最初からGoogleに情報渡しておいて、Googleが検索キーワードとその情報だけちゃんと結びつけてくれたらいいんじゃね?

…っていう発想でもって、世間の情報をひたすらかき集めて更新し続け、誰もWebサイトを作らなくても必要な情報が必要な人のところに届く、そんなWebサイトが生まれ、Google的な検索エンジンが無意味になる未来というのも、一つの可能性としてはあるのだろう。

2014年5月15日木曜日

2014年5月15日

いや、もうなんかほんと
音楽とか買って所有する時代じゃないわ